🐻くま

くま

物語のなかの有名なクマと言えば、プーさん

A・A・ミルンの児童小説「クマのプーさん」ですが、ディズニー映画のプーさんの方を「プーさん」として認識している人のほうが多いかもしれませんね。

くまのプーさん

クマのプーさん (Winnie-the-Pooh)
A・A・ミルン(作) E・H・シェパード(絵)


1926年(大正15年、昭和元年)に発表された児童小説。
クリストファー・ロビン(男の子)、プー(クマのぬいぐるみ)、森の仲間たちが登場して繰り広げられる10章からなる物語。

• 森の仲間たち~
  ロバのイーヨー、子ブタのピグレット、カンガルーの親子のカンガとルー
  トラの子供のティガー、フクロウのオウル、ウサギのラビット


● 物語

第1章 ミツバチの巣からハチミツをとろうとして風船を使うプー。
第2章 ラビットの家で食べすぎてお腹が穴にはまってしまうプー。
第3章 プーとピグレットが雪の中の足跡の追跡をする。
第4章 イーヨーが自分のしっぽを失くして落ち込む。
第5章 謎の生物を捕まえるために落とし穴を作り、自ら落ちるプー。
第6章 イーヨーは誕生日を祝ってもらえずに落ち込む。
第7章 カンガとルーが森にやって来た。ラビットのルー誘拐計画。
第8章 クリストファー・ロビンとみんなが南極探検に行く。
第9章 森が洪水。ピグレットの助けを求める手紙を拾ったプー。
第10章 クリストファー・ロビンがプーの祝賀会を開く。


● 物語の舞台

サセックス州(イングランド南東部)に実在する田園地帯アッシュダウンの森がモデル。

1924年夏、ミルンはクリストファー・ロビンが4歳のとき、この地の北のハートフィールド近郊の古農家コッチフォード・ファームを買い、別荘とした。

1925年以降、毎週末、復活祭、夏季休暇などに、妻子と乳母の4人で訪れていた。この際に、クリストファー・ロビンは、ぬいぐるみたちを連れてきていた。

コッチフォード・ファームは、クリストファー・ロビンが手放したあと、当時のローリング・ストーンズのメンバーのブライアン・ジョーンズが買い取りました。その後はまた人手に渡り、現在は個人所有となっています。


● ハートフィールド

ロンドン南東部イーストサセックス州にある小さな村。

ロンドンから公共機関で約2時間弱。(ロンドンから日帰りで行けるそうです)
   ビクトリア駅からイーストグリンステッド駅まで行き、そこからはバスを利用。
            ※バスは、土日は一日に数本の運行になります。

 • “プーコーナー”  プーグッズ専門店
   カフェが併設されています。
   ここで、物語の舞台を巡るためのウォーキング・マップを入手できます。

 • プーの棒投げ橋
   物語に出てくる、クリストファー・ロビンとプーが棒を投げる木造の橋。
   ファンにはとても人気の場所です。物語と同じ体験ができます。
   近くに、フクロウのオウルの家が木に埋められてあるそうです。

 • アッシュダウンの森
   橋から進んで行くと、100エーカーの森のモデルとなったアッシュダウンの森があ
   ります。
    プーが木から落ちて刺さったハリエニシダ
    カンガルーのルーが遊んでいたRoo’s Sandy Pit
    プーが北極を見つけたWhere the North Pole Was
   など、物語にまつわる箇所を楽しむことができます。

 • Enchanted Place
   A・A・ミルンとE・H・シェパードの記念碑が、アッシュダウンの森のなかにあり
   ます。


● ぬいぐるみたち

クリストファー・ロビンが所有するぬいぐるみたちが、森の仲間たちのモデルとなりました。

「プー」のモデルは、
1921年、クリストファー・ロビンの1歳の誕生日プレゼント。
ハロッズ(イギリスの老舗高級百貨店)で購入された、ファーネル社製のテディベア。

ファーネル社は、1906年にイギリスではじめてテディベアを作った会社。1968年に会社は閉じられた。1996年にメリーソート社がファーネル社の商標を取得し、ファーネル社のテディベアのレプリカを作っている。

ロバのイーヨーは、1921年のクリスマスプレゼントでもらったぬいぐるみ

子ブタのピグレットは、隣人からのプレゼントのぬいぐるみ

カンガルーの親子のカンガとルートラの子供のティガーは、ミルンが作品の執筆を続けている間に、自身でハロッズで購入したぬいぐるみ。

フクロウのオウルウサギのラビットには、モデルとなったぬいぐるみはない。


● ぬいぐるみたちの現在

キャラクターのモデルとなったぬいぐるみたちには、ミルンにより「出生証明書」が与えられ、長期間アメリカにおいて巡回展示が行われました。その後の1987年からニューヨーク公共図書館で展示保存されています。


● 物語が作られたきっかけ

クリストファー・ロビンがぬいぐるみたちとひとり遊びをしているところに、母・ダフネが声色を使い仲間入りした。この様子を見ていたミルン。
ミルンはこうして生まれたキャラクターたちをそのままに描写しただけだと、記しています。


● ディズニー

1966年 ウォルト・ディズニー・カンパニーは、「プーさんとはちみつ」(短編アニメー
ション) を公開。この作品はアメリカ色が強く、イギリスでは批判的に受け止められた。また、「クリストファー・ロビンの声をイギリス南部の発音で」とのキャンペーンが功を奏し、吹き替え直しが実現することになった。
その後も、「プーさん」の映画は制作されていき、「クマのプーさん」のキャラクターグッズも人気を集めて行った。

当初、原作の生まれたイギリスではディズニー映画に対して問題視することもありましたが、「クマのプーさん」が広く世界に知られることに、ディズニー映画の果たした役割は大きかったのです。

ディズニー版の「プーさん」の表記は、「Winnie the Pooh」
原作では、「Winnie-the-Pooh」と、ハイフンがつきます。
日本では、「くまのプーさん」の表記が作品とキャラクターで使用されています。
        


● 「プーさん」の正式な続編

2009年10月 「プーさんの森にかえる」が「くまのプーさん」の正式な続編として英米
      で刊行された。
      作者は、デイヴィッド・ベネディクタス
      挿絵は、マーク・バージェス

• ミルンの知的所有権管理者が、ディズニーから続編に関する権利を取り戻したのを機
に、管理者からの許諾を受け、 ミルンとシェパードの「プーさん」を尊重した形での
刊行となった。
日本では、2010年にこだまともこの翻訳で小学館から刊行された。1926年に刊行され
てから、80年を経た。森にクリストファー・ロビンが帰ってくるらしいという噂が流れてプーたちは歓迎パーティーの準備を始めます。

A・A・ミルン

「くまのプーさん」の作者は、
A・A・ミルン(アラン・アレクサンダー・ミルン Alan Alexander Milne)
  1882年1月18日-1956年1月31日
  イギリスの児童文学作家、ファンタジー作家、推理作家、詩人、劇作家

● ミルンの子供時代
ハーバート・ジョージ・ウェルズに教えを受けて大きな影響を受けた。

※ハーバート・ジョージ・ウェルズ
 Herbert George Wells 1866年9月21日-1946年8月13日)
 H・G・ウルズ(又はH・G・ウルズなど)は、イギリスの著作家、小説家。
 社会活動家、歴史家としても多くの業績を遺した。
 作品に「タイム・マシン(1895)」「モロー博士の島(1896)」「宇宙戦争(1898)」など
 
 •フランスの小説家 ジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれる。
   ※ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ (仏・Jules Gabriel Verne)
    1828年2月8日-1905年3月24日
    作品に「月世界旅行(1865)「海底二万里(1869、1870)」
       「八十日間世界一周(1873)」など

●学生時代
パブリックスクールのウェストミンスター・スクール、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ。

学内誌に詩、随筆を投稿。作家志望であった。
大学在学中、ユーモア誌「パンチ」に投稿、後には編集助手となった。

●第一次世界大戦では、通信将校として従軍した。

●結婚
1913年 ドロシー・ド・セリンコート(ダフネ)と結婚。
1920年 クリストファー・ロビン・ミルンが誕生。

●著作
「クマのプーさん」のシリーズ(2つの物語集(1,2)と2つの童謡集(3,4))
 1、「クマのプーさん」(Winnie-the-Pooh)
 2、「プー横丁にたった家」(The House at Pooh Corner)
 3、「クリストファー・ロビンのうた」(When We Were Very Young)
 4、「クマのプーさんとぼく」(Noe We Are Six)

そのほかに
「赤い館の秘密」(推理小説)
「ヒキガエル館のヒキガエル」(戯曲) 、他。
「自伝」の執筆もしている。


E・H・シェパード

挿絵を担当したのは、
E・H・シェパード(アーネスト・ハワード・シェパード Ernest Howard Shepard)
  1879年12月10日-1976年3月24日
  イギリスの挿絵画家、イラストレーター 
  ロンドン生まれ (生地はミルンの近在であったという)

1897年 王立美術院に進学。
     優秀な学生であった。
     在学中から雑誌の仕事を開始。
     ミルン同様「パンチ」誌に作品を掲載することが目標だった。

1904年 結婚。お相手は三歳年上のフローレンス・チャップリン。
     フローレンスの祖父はエブネイザー・ランデルズ。
     この祖父は、画家・彫刻家であり「パンチ」誌の創始者の一人でもあった。

1906年 雑誌の表紙・挿絵を描き始める。
1907年 「パンチ」誌で風刺漫画を描く。

第一次世界(1914年7月28日-1918年11月11日)
    陸軍砲兵隊に志願、大尉にまでなった。
1919年 帰還

1921年 「パンチ」誌の編集に携わるようになる。

1927年 妻の死去。仕事に没頭することで、悲しみを忘れようとした。
    このころ、「プーさん」の挿絵に関わるようになる。
   
    後に再婚する。

1953年 この年まで、「パンチ」誌で仕事を続けた。

1976年 死去。96歳。訃報は日本でも報道された。
    美術界への貢献に対し、英国政府より叙勲された。


● ミルンは不満だった、が…

ミルンの「When We were Very Young (ぼくたちがとてもちいさかったころ」、日本では「クリストファー・ロビンのうた」)」の出版前に、その挿絵のいくつかが「パンチ」誌に掲載された。この際に、シェパードが「プーさん」の挿絵担当として選ばれた。
しかし、この採用に対してミルンは不満だったという。ミルンの希望はもっと有名な挿絵画家だった。
が、完成した挿絵を見て、ミルンは自分の作品には「シェパード以外に考えられない! 」と確信したという。

● ミルンとシェパードのエピソード

ミルンはシェパードに贈った「クマのプーさん」のなかに、” 願い ” 込めた戯詩を書きこんでいた。
 1, ピグレットがタンポポの綿を吹いている
 2, プーとピグレットが夕日に向かって歩いていく
自分の死去の際に、上記二つのシーンの挿絵で「墓石を飾ってほしい」という内容だった。

この本は、1990年のクリスティーズのオークションで”16500ポンド”で落札された。


● 挿絵のためのスケッチ

シェパードは、モデルとなったキャラクターのぬいぐるみをスケッチして、挿絵を描いていった。

” プー ” については、クリストファー・ロビンのぬいぐるみをスケッチはしたが、結果としては、自分の息子グレアムの持っていたぬいぐるみをモデルにして ” プー ” を描いた。
このテディベアは、クリストファー・ロビンのものより、ずんぐりした体型のもので、「グロウラー・ベア」と呼ばれていた。(おそらく、シュタイフ社製か…ということです)

また、シェパードはミルンの別荘 ” コッチフォード・ファーム ” にも家族で招かれ、物語の舞台となるこの地をスケッチしてまわった。シェパードのスケッチの大部分は、1969年にロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に寄贈された。


● シェパードの後年

シェパードは後年、「クマのプーさん」「プー横丁にたった家」の挿絵に彩色をし、1973年に出版している。この挿絵はその後、よく使用されるようになった。

1950年代の終わりに、こらまでの挿絵を新しいものに変えて描いた彩色版を制作した。


Winnie-the-Pooh

「クマのプーさん」は、英名では「Winnie-the-Pooh」

● Winnie (ウィニー) 

” ウィニー ” という名は、当時、ロンドン動物園で人気だったクロクマ(雌)のウィニーからとられている。ウィニーは、カナダ・マニトバ州ウィニペグからやって来た。

” ウィニー ” を扱った絵本2冊のご紹介

ウィニー 「プーさん」になったクマ

サリー・M・ウォーカー(原作)
ジョナサン・D・ヴォス(絵)
さくまゆみこ(訳)
汐文社




プーさんとであった日 世界でいちばんゆうめいなクマのほんとうにあったお話

リンジー・マティック(文) ソフィー・ブラッコール(絵) 山口文生(訳) 評論社

ウィニーをカナダからロンドンへと連れて行った獣医師のハリー・コルバーン中尉。そのひ孫にあたる作者による作品です。お母さんが息子に語り聞かせる形になっています。最後に、お母さんがそのひ孫自身であることがわかります。
2016年にコールデコット賞を受賞した、美しい作品です。


● Pooh ( プー )

ミルン親子が訪れていたウェスト・サセックス(イングランド南部)のポーリング(村)。
そこにいた白鳥の名前が、” プー ” 。

” 白鳥のプー ” は、「クリストファー・ロビンのうた」の序文に白鳥の名前について書かれている。
また、「クリストファー・ロビンのうた」のなかに湖の白鳥についての詩「かがみ」がある。
   ~そこに一羽の白鳥がやってきて みずうみで二羽の白鳥になった~


● クマのウィニー

1914年(第一次世界大戦中)、カナダに駐屯するハリー・コルバーン中尉(軍獣医)が、オンタリオ州ホワイトリバーで、猟師が連れていた子熊を20ドルで購入した。

その子熊は、中尉の故郷のウィニペグに因んで、” ウィニペグ (ウィニー) ” と名付けられた。
ウィニーは、カナダ軍の連隊のマスコットとなり、隊とともにイギリスへ。そして、フランスへと移動が決まった時、ロンドン動物園に預けられた。その後、1919年12月に動物園に正式に寄贈された。

ウィニーは人気を集めた。動物園を訪れたクリストファー・ロビンは、自分のくまのぬいぐるみに「ウィニー」と名付けることになる。

当時の動物園では、子どもたちが動物たちの囲いの中に入り餌を与えることができた。
クリストファー・ロビンが、ウィニーにハチミツを与えている場面の写真が残っている。

ウィニーは、1934年5月12日に死んだ。その頭蓋骨は標本として保管された。
2015年、イングランド王立外科医師会のハンテクアン博物館で初公開された。

ウィニーの頭蓋骨を調査したところ、大部分の歯が失われていた。高齢であったこと、動物園で甘い物の摂取の多かったことが、理由と考えられている。


● カナダのウィニペグ (Winnipeg)

カナダ・マニトバ州南部の都市。

ウィニペグに住む人たちは、通称「Winnipegger(ウィニペガー)」と呼ばれているそうです。
夏場には、蚊が大量発生。夕方、湖岸では蚊の羽ばたく音が合唱になって聞こえるほどだそうです。
多くのウィニペガーは、「州鳥は蚊」であると認めているそうです。

ウィニペグのアシニボイン公園(Assiniboine Park) には、ウィニーとハリー・コルバーン中尉の像があります。


日本での翻訳

1940年(昭和15年) 石井桃子の翻訳で岩波書店より出版された。
1941年(昭和16年) 松本恵子の翻訳が「小熊のプー公」というタイトルで新潮文庫から
         出版された。
2017年(平成29年)5月 日本国内での原著の著作権が切れたことで、6月に森絵都の翻訳
           で「クマのプー」が角川文庫から出版された。


おすすめ「クマのプーさん」本

クマのプーさん全集
   A・A・ミルン(作) E・H・シェパード(絵) 
   石井桃子(訳) 小田島雄志(訳) 小田島若子(訳)
   岩波書店 1997年刊行

   「クマのプーさん」「プー横丁にたった家」
   「クリストファー・ロビンのうた」「クマのプーさんとぼく」

   • 「クマのプーさん」のシリーズを構成する2つの物語集と2つの童謡集が収められ
    ている大判で豪華な装丁の一冊です。読みごたえ、持ちごたえ満点の本です。


くまのプーさん Anniversary Edition
   A・A・ミルン(作) E・H・シェパード(絵) 石井桃子(訳)
   岩波書店 2006年刊行

プー横丁にたった家 Anniversary Edition
   A・A・ミルン(作) E・H・シェパード(絵) 石井桃子(訳)
   岩波書店 2008年刊行

   上記2冊は、1926年の「クマのプーさん」から80年を記念しての刊行になる”80年記
   念愛蔵版”。
   彩色されたシェパードさんの絵と素敵な装幀で仕上がった、惚れ惚れするような “本”
   です。
   贈り物にするもよし、ご自身の手元で愛でるもよし。
   選択して間違いなしの2冊です。(と、思います)
   

      「クマのプーさん」      
       (2020年9月20日 UTCの版)「ウィキペディア日本語版」を参考にしました。

お次は、パディントン

イギリスには、もう一頭有名なクマがいました。

「くまのパディントン」(Paddington Bear)

イギリスで1958年10月13日に出版された
「くまのパディントン A Bear Called Paddington 」
に初登場した “くま” が、パディントンです。以後に続くシリーズ作品の主人公です。
「くまのパディントン」は、マイケル・ボンドが創作した児童文学作品です。
挿画はペギー・フォートナム。日本では1967年、福音館書店から最初に刊行された。

くまのパディントン

マイケル・ボンド(作) ペギー・フォートナム(画)
松岡享子(訳) 
福音館書店


1967年刊行
このシリーズの翻訳には田中琢治さんと石井桃子さんも



くまのパディントン (文庫版)

マイケル・ボンド(作) ペギー・フォートナム(画)
松岡享子(訳)
福音館書店


2002年刊行 文庫版のシリーズの翻訳には田中琢治さんも



クマのパディントン

マイケル・ボンド(作) R・W・アリー(絵)
木坂涼(訳) 理論社


2012年刊行~2019年刊行「パディントンのてんらんかい」


● “パディントン” の本

 • 絵本
   2012年9月 R.W.アリーの挿画、木坂涼さんの翻訳による絵本「くまのパディント
   ン」が理論社から刊行。「パディントンのてんらんかい」(2019) まで7冊刊行。

 • 書籍
   英国
    1958年、「くまのパディントン A Bear Called Paddington 」が出版されました。
    メインシリーズの短編集 (14冊) 、シリーズ外の短編集、多くの絵本が出版されてい
    ます。

   日本    
    メインシリーズの短編集 (10作目まで) が、ペギー・フォートナムの挿画、松岡享子
    さん、田中琢治さん、石井桃子さんの翻訳で刊行。2002年から文庫版も刊行されて
    います。

    WAVE出版から、以下の3冊が刊行されています。
    •「パディントン、テストをうける」(2017年)
     マイケル・ボンド(作) ペギー・フォートナム(絵) 三辺律子(訳)
    •「パディントン、映画に出る」(2018年)
     マイケル・ボンド(作) ペギー・フォートナム、R.W.アリー(絵) 三辺律子(訳)
    •「パディントンのどろぼう退治」(2018年)
     マイケル・ボンド(作) ペギー・フォートナム、R.W.アリー(絵) 三辺律子(訳)

 •「くまのパディントン」シリーズ
  1.くまのパディントン
  2.パディントンのクリスマス
  3.パディントンの一周年記念
  4.パディントン フランスへ
  5.パディントンとテレビ
  6.パディントンの煙突掃除
  7.パディントン 妙技公開
  8.パディントン 街へ行く
  9.パディントンのラストダンス
  10.パディントンの大切な家族
  11.パディントン、テストをうける (1979年)
  12.パディントンのどろぼう退治 (2008年)
  13.パディントン、映画に出る (2012年)
  14.Paddington’s Finest Hour (2017年)
  15.Paddington at St. Paul’s (2018年) 60周年記念作。遺作。

 •「くまのパディントン」シリーズ外の短編集
  1.Paddington’s Blue Peter Story Book (1973年)
  2.Paddington on Screen (1980年)


● 物語

パディントン駅。
「このクマをよろしくお願いします」(Please look after this bear. Thank you.)
このような文言が書かれた札をつけたクマが、スーツケースに座っていました。
このクマは、「暗黒の地ペルー」から送られてきた “密航者” として、ロンドンに着いたのでした。
ブラウン一家と出会い、この駅名から「パディントン」と名付けてもらいました。
ブラウン家はポートベロー・ロード近くのウィンザー・ガーデン32番地。
この家で暮らすパディントンですが、トラブルがたびたび発生。ラストで解決というお話。
面倒は起こすけれども真っすぐなパディントンをやさしく見守るブラウン家の面々がいいです。


● ぬいぐるみ

パディントンのぬいぐるみは、1972年に “ガブリエル・デザインズ” により製作された。
経営者のクラークソンは、パディントンのぬいぐるみの試作品を、自分の子どもたちへのクリスマスプレゼントにした。この際にぬいぐるみが直立できるように、ウェリントン・ブーツを履かせたという。
初期のブーツはダンロップ (Dunlop Rubber) 製の子ども用ブーツを使用していた。供給が追い付かなく
なると、靴底に足跡のついた会社オリジナルのものを使用するようになった。
  • ダンロップ (Dunlop) は、イギリスのゴム・タイヤのメーカー。 

  •「パディントンの煙突掃除」(Paddington Marches on)のお話のなかで、パディントン
   はクリスマスプレゼントにウェリントン・ブーツをもらっています。

  • ウェリントン・ブーツ(Wellington boot)は、一般的にはゴム製の長靴のこと。
   日本では、初代ウェリントン侯爵 (1769.5.1-1852.9.14 英・軍人、政治家、貴族) が
   作成した元来の皮製のブーツを言うこともあります。また、ウェリントン・ブーツを
   元にデザインされた初期のカウボーイ・ブーツを言うこともあります。


マイケル・ボンド

マイケル・ボンド(Michael Bond 1926年1月13日-2017年6月27日)
 イギリス・バークシャー州ニューベリー出身
 小説家

 第二次世界大戦 (1939-1945) 中はイギリス空軍、イギリス陸軍に入隊した。

 1945年から短編を書き始める。
 BBC(英国放送協会 イギリスの公共放送局)で、カメラマンとして働きながら、短編を書き
 続ける。
 
 1958年「くまのパディントン」を発表する。

 1967年から作家業に専念。
  作品には、大人向けのミステリー「パンプルムース氏」シリーズもあります。

 1997年と2015年に、大英帝国勲章 (英国の騎士団勲章 “Order” ) 叙勲。
  
● 物語のはじまり

 • 1956年クリスマス・イブ
 マイケル・ボンドが妻へのプレゼントに売り場に残っていたクマのぬいぐるみを贈った。
 そのクマから物語を思いついたという。
 ”パディントン” という名は、当時パディントン駅のそばに住んでいたことから。

 • くまのパディントンとブラウン夫妻がパディントン駅で出会う場面
 第二次世界大戦時にロンドンから疎開してきた子どもたちが首から名札を下げてスーツケ
 ースを持っていたのを、ニュース映像で見たことが起点。

 •「暗黒の地アフリカ」から来たクマ
 この設定で物語を始めるつもりでいたが、”アフリカにクマはいない” と知り 、”ペルーか
 ら来た” ということに変えた。 


パディントン駅

“パディントン駅” と言って思いつくミステリーがあります。

アガサ・クリスティー「パディントン発、4時20分」です。
  ミス・マープルが探偵役のミステリーです。
  すれ違う列車のなかで殺人が行われているのを、ミス・マープルの友人が目撃してしま
  うのです。
  ミス・マープルは若い女性を、犯罪が疑われるお屋敷に潜入させます。
  事件解決のため、その屋敷に乗り込んだミス・マープル。
  目にゴミが入ったようだと嘘を言い、診てもらいます。なぜだと思いますか ?
  そして、事件解決。

● マイケル・ボンド作のミステリー作品もおもしろいです。
 「パンプルムース氏」シリーズ
  とても楽しい “大人向け” のお話です。
  パンプルムース氏は、レストランの格付け調査員なのです。
  彼の良き相棒として、”犬のポムフリット” が登場します。

 • パンプルムース = フランス語で「グレープフルーツ」の意
  ポムフリット = フランス語で「フライドポテト」の意

 


ペギー・フォートナム

マーガレット・エミリー・ノエル・フォートナム(1919年12月23日-2016年3月28日)
イギリス・ミドルセックス州ハロー生まれ
イラストレーター

第二次世界大戦中には、イギリス陸軍が組織した女性部隊に参加した。この間に事故にあい重傷を負い回復に時間がかかった。回復後はロンドンで美術の学校に通い、画家やテキスタイルデザイナーとして働いた。その後、イラストレーターを専業とするようになった。

フォートナムの作品として有名なものとしては、やはり「くまのパディントン」があげられる。
“パディントン” は白黒のインクで描かれた。着色されたイラストは、その後の人々によるもの。


● フォートナムの他の挿画作品

「思い出のマーニー」(原作・ジョージ・G・ロビンソン) の挿絵も描いている。
 • 思い出のマーニー
    原作はジョージ・G・ロビンソン。1967年、イギリスで出版された。
    作品はTV化もされる大ヒット。
    日本では、1980年に岩波少年文庫から翻訳版が出版された。
    スタジオジブリで映画化もされました。
   

      「くまのパディントン
       (2020年9月20日 UTCの版)「ウィキペディア日本語版」を参考にしました。


3匹目のくまは、「3びきのくま」

“3匹目” と書きましたが、熊は「一頭、一匹」と「頭・匹」で数えるようです。「匹」は小さい熊に対して使うようです。

3びきのくま」は、親子のクマと女の子のお話です。

女の子が、森でクマの家を見つけて勝手に中に入りこみます。家の中には、3つの大きさのものがそれぞれにあります。女の子は全部試して、最後に自分にピッタリのものを見つけていきます。気持ちよくピッタリのベッドで眠っていると、クマの親子が帰ってきます。我が家の散乱ぶりに驚くクマの親子、そのクマたちに驚いて逃げる女の子。

昔、この絵本を読んだあとには、クマの子に同情したことを覚えています。

3びきのくま

「3びきのくま」(the Three Bears)
または、「ゴルディロックスと3匹のくま」(Goldilocks and the Three Bears)
としてしられているイギリスの民話・童話。

1837年、ロバート・サウジーが散文で著したことから広く人々の知ることとなった。また、これ以前の古い原作による「お話」ということもあるそうです。

「お話」では女の子が主人公となっていますが、本来は「女の子」ではなく「老婆」だったそうです。意地悪ばあさんに部屋を滅茶苦茶にされるという「お話」が、子どもへのしつけ教化のための「お話」に変遷を遂げていった過程で、老婆が女の子にとって代わられたようです。


ロバート・サウジー

ロバート・サウジー ( Robert Southey 1774年8月12日-1843年3月21日 )
イギリス 
ロマン派詩人 (「湖水詩人(湖畔詩人)」の1人 ) 、桂冠詩人

● 湖水詩人
19世紀、イングランドの湖水地方に住んでいた詩人たちのことを言う。
代表する詩人として、
ウィリアム・ワーズワース、サミュエル・テイラー・コールリッジ、ロバート・サウジー

● 桂冠詩人
優れた詩人に与えられる称号。
古代ギリシア、ローマ時代、詩作は体育と並ぶ競技で、勝利者にはアポロン(詩神)に因む月桂冠が授けられた。
17世紀、イギリス。王室の慶弔時に詩作する役職 ( poet laureate ポエット・ローリイット) が設けられた。現在も続いている。

セシル・デイ=ルイス

セシル・デイ=ルイス (Cecil Day-Lewis , CBE 1904年4月27日-1972年5月22日)

アイルランド生まれのイギリスの詩人、作家、推理作家
1967年から1972年まで、イギリスの桂冠詩人。

ニコラス・ブレイク(Nicholas Blake)名義で、推理小説を執筆。
• 作品に「証拠の問題」(1935年)、「野獣死すべし」(1938年)
 ”ナイジェル・ストレンジウェイズ” というシリーズ探偵が活躍する。
 マイケル・イネスなどと「新本格派」と称される作家です。


ダニエル・デイ=ルイス

ダニエル・デイ=ルイス (1957年4月29日ー)
(サー・ダニエル・マイケル・ブレイク・デイ=ルイス Sir Daniel Michael Blake Day-Lewis)

イギリス・ロンドン生まれ。元俳優。

桂冠詩人であるセシル・デイ=ルイスの息子。母は女優のジル・バルコン(Jill Balcon)。

俳優としては、アカデミー主演男優賞を3度受賞している唯一の人です。
• 受賞作品 1989年公開 「マイ・レフトフット」(監督・ジム・シェルダン
      2007年公開 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」
                (監督・ポール・トーマス・アンダーソン) 
      2012年公開 「リンカーン」(監督・スティーヴン・スピルバーグ)

2014年6月 エリザベス2世よりナイトの称号 (KBE) を与えられた。
      演劇への貢献を讃える受賞。

2017年6月20日 俳優業の引退を発表。
 2017年公開の映画「ファントム・スレッド」(監督・ポール・トーマス・アンダーソン)
 が、最後の作品。
 

• プライベートでは、
1993年 アイルランドの市民権を取得。
    アメリカとアイルランドで暮らす。

1996年 レベッカ・ミラーと結婚。
     レベッカ・ミラー(Rebecca Miller)  女優、脚本家、映画監督。
     (2009年の監督作品に、ルイスは俳優ではなく大工作業スタッフとして参加)
     
1998年 イタリアで靴職人としての修行をする。

• レベッカ・ミラーのお父さんは、
アーサー・ミラー 
 アーサー・アッシャー・ミラー (Arthur Asher Miller 1915年10月17日-2005年2月10日)     
 アメリカの劇作家。代表作に「セールスマンの死」
 1956年、女優マリリン・モンローと結婚。1961年、離婚。
 1962年、写真家インゲ・モラスと結婚。    
      


トルストイ

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ
  ( Lev Nikolayevich Tolstoy 1828年9月9日-1910年11月20日 )

帝政ロシアの小説家、思想家。
19世紀のロシア文学を代表する作家。
 他に、フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフ。

代表作に「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「復活」など。

● トルストイの翻案による「3びきのくま」が、日本の “定番” というところではないでしょうか。


「3びきのくま」の本

3びきのくま

L.N.トルストイ(文) 
バスネツォフ(絵) 小笠原豊樹(訳) 
福音館書店

1962年刊行



トルストイ ショートセレクション
三びきのクマ


L.N.トルストイ(著者) 
小宮山俊平(訳) ヨシタケシンスケ(絵)
理論社


2018年刊行 8短編収録


トルストイの民話

トルストイの民話

L.N.トルストイ(作)
B.ディオードロフ(絵) 藤沼貴(訳)
福音館書店


1989年刊行



女の子 ゴルディロックス

くまさんの家を荒らしまくる女の子の名前は、” ゴルディロックス ” です。

Goldilocks = Gold + Lock
( ゴルディロックス )= (金) + (髪) から、「金髪」

物語に登場する女の子は大概の作品で、金髪で表現されています。


● エポニム(eponym) =主に人名に由来する名称。
  例:アキレス腱、レントゲン、カーディガン、モールス信号 など

「ゴルディロックス」という名も、いろいろな分野の名称に使用されています。
「3びきのくま」のなかで、ゴルディロックスが3種類の「熱さ」や「大きさ」から、自分に最適の物を選択することから、その意味合いを込めた名称となっています。経済、宇宙、心理学、工学、生物学など多岐にわたる分野で「ゴルディロックス」が使用されています。そのなかのいくつかをあげてみます。

• ゴルディロックス相場 = 適温相場
 景気が過熱の冷え込むこともない適度な状況にあり、程よい状況が続くこと。

• ゴルディロックス経済 (Goldilocks economy)
 過熱しない低迷もしない適度な経済状態のこと。
 ( インフレでもないデフレでもない、景気が良すぎず悪すぎもしない経済状態 )

• ゴルディロックスゾーン (Goldilocks zone)
 宇宙において、生命が進化することに適した領域のこと。
 前提としては、生命の存在に適したハビタブルゾーン内にあること。その上に、生命の進
 化を可能とする環境が数億年から十数億年間、維持されることが必要となります。

• ゴルディロックス惑星
 ゴルディロックスゾーンの中で、中心星から生命の生存に最適の距離にある太陽系外惑星
 のこと。
               • 太陽系外惑星=太陽以外の他の恒星の周囲をまわる惑星

 ハビタブルゾーン (Habitable zone)
  宇宙で生命が存在可能な天文学上の領域のこと。
  恒星の周囲をまわる惑星の表面に、液体の水が存在する温度になる領域。また、水だけ
  でなくメタンや二酸化炭素が液体で存在する領域も含まれます。
  生命が存在するためには、有機物が液体に溶け込んで、降雨や蒸発などにより凝集が発
  生することが重要だとされています。
  「生命居住可能領域」「生存可能圏」「生存可能領域」

  → ゴルディロックスゾーンは
    「生命の存在 (ハビタブルゾーン) 」に加えて「 進化」に適した領域 のこと。
  

    「3びきのくま
     (2020年9月20日 UTCの版)「ウィキペディア日本語版」を参考にしました。

      


「パンチ」誌 (Punch)

パンチ」誌は、1841年7月17日の創刊されたギリスの週刊風刺漫画雑誌。


創刊

創刊時のメンバーは、
ヘンリー・メイヒュー、マーク・レモン、エビネザー・ランデルズ(木版画家)。

フランスの日刊風刺新聞「ル・シャリヴァリ」( Le Charivari ) と同様の雑誌を作りたかった。

誌名は、
イギリスの伝統的な人形芝居「パンチとジュディ」の主役・”ミスター・パンチ” から。
               (ミスター・パンチは言動は過激なことで知られていた)

創刊号は、W・ブライアント出版社から発売。A4判14ページ、価格は3ペンス。
第1刷5,000部 + 増刷5,000部 = 10,000部の売り上げとなりました。

表紙

創刊号(1841年)の表紙は、アーチボルド・ヘニング (挿絵画家)。

1849年1月の表紙を
描いたのは、リチャード・ドイル
描かれたのは、ミスター・パンチと忠犬トビー

この表紙が好評で、この後の107年間
このデザインが表紙となります

リチャード・ドイルは “シャーロック・ホームズ” で
お馴染みのサー・アーサー・コナン・ドイルの叔父




カートゥーン

カートゥーン” は、 アメリカやヨーロッパでは、一コマ漫画かユーモラスな趣向のアニメー
ションのことをいいます。

“カートゥーン” の祖は、風刺画とされる面もあります。風刺画は、新聞勃興の時期に政権攻
撃の戦略として多用されました。

この風刺画を “カートゥーン” と呼ぶようになったのは、1843年「パンチ」誌上での風刺画
コーナーに掲載された、スケッチ調のペン画が最初となるようです。

この「パンチ」誌の風刺画コーナーは
「ミスター・パンチの鉛筆画集」(My Punch’s pencillings)と言いましたが、政治家たちの
利己的な姿勢を皮肉る意味で「カートゥーン」とされた。

“カートゥーン” = 下書き。
歴史的に見ると “カートゥーン” は、油絵などの制作時に紙に原寸大で描く下絵(下書き)の意
味です。
厚紙を意味するイタリア語の「カートン」(cartone)、オランダ語の「カルトン」(karton)に
由来します。


ポンチ絵

ポンチ絵は、明治時代に描かれた浮世絵の一種です。滑稽な絵、風刺的な絵。
寓意的な絵。後の漫画の原点とされます。
日本において、ポンチ絵は「漫画」の呼称の一つ。

1862年 日本、横浜居留区。チャールズ・ワーグマンにより
   「ジャパン・パンチ」が創刊された。1887年まで。

ポンチという言葉は、日本の文明開化期に使われるようになりました。
“ジャパン・パンチ” が「ポンチ」の語源ともされています。

• ポンチ絵は、一方
概略図、構想図、製図の下書き、イラストや図を用いた企画書などのことも
言います。


「パンチ」誌への寄稿者

“プーさん” に関係する二人
A・A・ミルンは投稿し、その後は編集助手になりました。
E・H・シェパードは風刺漫画を描き、編集にも携わった。

“アリス” の挿画で有名な
ジョン・テニエルは19世紀後半の常連。50年間(数回の休載あり)毎週1ページを使った
政治漫画を連載していた。

他にも、ウィリアム・サッカレー、C・S・ルイス、サマセット・モーム……
挿画では、アーサー・ラッカム、ジョン・リーチ、リチャード・ドイル……

過日、上皇后さまのお言葉(「…ジーヴスも2・3冊待機しております…」)で脚光を浴びた
“ジーブス” シリーズの作者のP・G・ウッドハウスも寄稿者のひとりでした。


「パンチ」誌の廃刊

創刊から150年後の1992年に廃刊となりました。

1996年前半、実業家のモハメド・アル = ファイド氏が「パンチ」の誌名を買収。
1996年終わり、出版を再開。
2002年5月、刊行停止を発表。

6年間(1996-2002) の損失は、約1,600万ポンド。最終的な定期購読者は、6,000名。

• モハメド・アル = ファイド氏は、
 1985年にハロッズ(ロンドンの老舗百貨店) の経営者となりました。
 
 「クマのプーさん」のぬいぐるみ (プーさん、カンガとルー、トラのティガー) が購入され
  たのが、ハロッズでした。


パンチ(雑誌)
       (2020年9月20日 UTCの版)「ウィキペディア日本語版」を参考にしました。


再び、プーさん

「プー横丁にたった家」刊行後、A・A・ミルンはエッセイのなかで児童文学との訣別を宣言した。

大人向けの戯曲や小説を執筆したが、「プーさん」以上の成功を得ることはなかった。

版を重ねる「プーさん」人気は、息子クリストファーの生活を脅かしていった。

「プーさん」の脚光は、ミルン(父)とクリストファー(息子)に影を落とすことになった。

1955年にミルンが死去。
その追悼記事で「プーさん」以外の業績を讃えたのは、「パンチ」誌のみだった。


クリストファー

● 父・ミルンへの思い
少年時代には、「おやすみのおいのり」をクリストファーが歌いレコードに。
そのことで、級友にからかわれることもあった。
それでも、クリストファーは、父親のことは尊敬し続けた。

クリストファーは、兵役後にケンブリッジ大学を卒業。
父親と同じ大学を卒業し、同じように作家を目指した。
しかし、持ち込んだ原稿が採用されることはなかった。
就職しても、なかなかうまくいかなかった。
挫折が重なっていくなかで、父親に対する思いが負の方向へと向いていった。

クリストファー・ミルン著「クマのプーさんと魔法の森」の中に、
クリストファーの悲しい気持ちが吐露されている。

● 結婚
1948年 両親の反対にあったが、親戚の娘と結婚。デヴォン州ダーツマスで書店を経営。

● 絶縁
父と息子の絶縁関係は、1955年のミルンの死まで続いた。

● 後年のクリストファー
「プーさん」に関係する催事や企画に参加するようになった。
デヴォン州で妻子と暮らしながら、執筆は続けていた。

そして、1996年4月20日死去。75歳でした。


映画「グッバイ・クリストファー・ロビン」(Goodbye Christpher Robin)
      2017年 イギリス 監督・サイモン・カーティス
            (日本未公開 2018.10.3 DVD発売)

戦場で、「プーさん」が世界中の人に愛されていたことを知ったクリストファー。
父と和解。結婚し、小さな書店を経営。父のもたらす莫大な印税は受け取らなかった。


その他、もろもろ

とりとめのないことを少しだけ……

クマについて

物語の “クマ” のモデル

●「クマのプーさん」
“プーさん” のモデルになったクマは、
アメリカグマ (アメリカクロクマ) (Ursus americanus) 食肉目(ネコ目)クマ科クマ属
  アメリカ合衆国、カナダ、メキシコなどに生息している。
  体長は1.2m~2m。
  森林に生息。食べ物は木の実、昆虫、魚類など。メキシコなどではサボテンも食べる。
  ヒグマとはライバル関係。そのためヒグマを避けるために木のある環境に暮らす。
  ヒグマのいなくなった地域に生息地を広げることもあるようです。

●「くまのパディントン」
“パディントン” のモデルになったクマは、
メガネグマ (Tremarctos ornatus) 食肉目(ネコ目)クマ科メガネグマ属
  エクアドル、コロンビア、ペルーなど南アメリカに生息している。
  目の周りに白い斑紋がある。個体によっては眼鏡をかけているように見えることから名
  付けられた。
  標高1,800m~3,300mにある雲霧林 (cloud forest 霧が多く湿度の高い森林) に、多くが
  生息していますが、乾燥した地域 (砂漠や草原) でも生息が確認されているそうです。
  食べ物は植物食を好む雑食です。果実(ヤシやパイナップルなど)がお好きなようです。
  人間による開拓、乱獲、狩猟(娯楽・趣味)により、生息数が減少しているようです。

• マイケル・ボンドは当初、パディントンは「暗黒の地アフリカ」から来たという設定にし
 ようとしていましたが、「アフリカにはクマがいない」ことを知らされました。そこで、
 パディントンの出身地は、メガネグマの棲む “ペルー” となりました。
  


石井さんと松本さん

「クマのプーさん」の翻訳に関わったお二人。

● 石井桃子 (1907年3月10日-2008年4月2日)
   日本の児童文学作家、翻訳家

 1933年 犬養家のクリスマスイブでの
     「プー横丁にたった家」の原著(The House at Pooh Corner) との出会いから。
     本は、仕事で知り合った犬養健(犬養毅の三男で政治家、小説家) の子どもたちへ
     のプレゼントだったもので、石井は子どもたちのために少しずつ訳し始めた。

 1940年12月 吉野源三郎(「君たちはどう生きるか」の著者) の紹介で、岩波書店から
       「クマのプーさん」を翻訳出版する。

● 松本恵子 (1891年1月8日-1976年11月7日)
   日本の推理作家、エッセイスト、翻訳家
   ”中野圭介” 名義で、ミステリ作品を発表している。
   大学卒業後、ロンドンに日本語家庭教師として赴任。
   ロンドンで、松本泰(日本の小説家、推理作家、翻訳家)と知り合う。

 1918年 松本泰と結婚。
 1919年 帰国。夫婦で東京・谷戸で貸家業を始める。

 夫が刊行した「秘密探偵雑誌」に翻訳、小説を発表する。

 1928年 貸家業の二人は、同棲中の小林秀雄と長谷川泰子の大家ともなっていた。
     • 小林秀雄は文芸評論家、編集者、作家。長谷川泰子は女優。
      長谷川は、中原中也(詩人)と小林との三角関係で知られている女性。
     • 小林と長谷川の家の向かいに田川水泡(「のらくろ」で知られる漫画家、落語作
      家) が住んでいた。田川と高見沢潤子(小林の妹で作家、随筆家) の仲をとりもち
      二人の仲人をつとめた。

 1939年 4月19日に松本泰が死去。
     松本は中国へ渡る。北京でキリスト教婦人団体施設「愛隣館」の事業を助ける。

 終戦後に帰国し、横浜で翻訳の仕事をする。一時は桜美林大学で教鞭をとった。
 多くの児童文学(「若草物語」など) や、英米ミステリ(アガサ・クリスティーなど) の翻訳
 がある。

• 創作
 結婚前から “伊藤恵子” 名義で小説、翻訳を発表していた。
 ロンドン時代には、「三田文学」にも “高野恵” 名義で寄稿、帰国後も続けていた。
 松本泰(夫) の主宰する「秘密探偵雑誌」(1923年8号) に”中野圭介” 名義で「皮剥獄門」
 を発表。松本さんのはじめての創作探偵小説であり、日本の女性探偵小説家の草分け的
 存在であります。
    三田文学ー慶応義塾大学文学部を中心に刊行されてきた文芸雑誌。


      「松本恵子
       (2020年9月19日 UTCの版)「ウィキペディア日本語版」を参考にしました。

     


森のくまさん

♪ ある日、森のなか~

で、はじまるこの歌。
原曲は「The Other Day, I Met a Bear」で、
他に「I Met a Bear」「The Bear in the Forest」「Bear in Tennis Shoes」「(The)Bear Song」などのタイトルがあります。

アメリカの “スカウトソング” といわれるものです。

 スカウトソングとは、ボーイスカウトやガールスカウトの活動で、歌われる歌の総称。
 地域や組織により、違いがあり多様なものです。
 主唱者について、伴唱者が繰り返していく「エコーソング」の典型とされています。

● 原詞
作詞者不詳。細部が異なる多数のバージョンがあります。
 「主人公が森でクマにあい、追いかけられて、樹に飛び移って助かる」
 と、いうように、クマは人に襲いかかってくるのです。
 原曲名の一つにある”テニスシューズ”を履いているクマには「話しかけるな!」という教訓
 めいた内容の歌になっています。

作曲者も不詳。
 アメリカでは、このメロディーを使った曲が多数あるそうです。

● 日本では
1972年8月-9月 NHK「みんなのうた」で紹介されました。
当時、日本語作詞者は不詳とされていました。
「アメリカ民謡」と編曲者(玉木宏樹) が表記されていただけでした。

日本語の作詞、訳詞については、込み入った経緯があるようです。
編曲者の玉木さんは、「作詞者不明」を主張し続けていたそうです。

 
       「森のくまさん(曲)
        (2020年9月19日 UTCの版)「ウィキペディア日本語版」を参考にしました。


おすすめ「くま」さん絵本 ”くまとやまねこ”

くまとやまねこ
湯本香樹実(作) 酒井駒子(絵) 河出書房新社

ある日、くまと仲良しのことりが死んでしまいます。
くまは小さな木箱を作り、色を付け、花をたくさん敷き詰めて、ことりをその中そっと横たえます。
くまは、その箱をほかのどうぶつたちに見せます。
どうぶつたちの反応は……
悲しみにくれているくまは、どうぶつたちの言葉を受け入れられません。

箱のなかのことりの美しさが、くまの嘆きに輪をかけて、伝わってきます。

読んでいて「ん……? 」と、思いました。題名は「くまとことり」では、ない。
やまねこは……

そして、くまとやまねこの出会い。くまの気持ちが前向きになっていきます。
やまねこの奏でるヴァイオリン。

湯本さんの文章と酒井さんの情感たっぷりの絵が溶け合っていて、素敵です。


そして、ミステリ

A・A・ミルン「赤い館の秘密」

マイケル・ボンド「パンプルムース氏のおすすめ料理」他の”パンプルムース氏”シリーズ

松本恵子「皮剥戯獄門」「真珠の首飾り」など
    翻訳作品には、アガサ・クリスティー「アクロイド殺し」
           マーガレット・ミラー「鉄の門」など

• 個人的なことになりますが、
 翻訳ミステリが好きでよく読んでいるのですが、今回の “くま” の括りを進めていくなか
 で、ミステリとの関連を否応なく感じてしまいました。
 「パンチ」誌についての記述や、その由来となった「パンチとジュディ」などは、よく出
 てきます。
 「プーさん」も「パディントン」も知っていたけれど、「赤い館の秘密」や「パンプルム
 ース氏」を読んでから、その作者が同一人と知り驚き、なぜかうれしかったのです。
 松本さんがクリスティーを訳していたこと。現在は絶版になっていますが、もしかしてそ
 の翻訳本を読んでいたかもしれないし、探せば家にあるかもしれないと思うとワクワクし
 ます。
 「3びきのくま」の女の子を「ゴルディロックス」と認識したのもミステリからでした。
 昔に読んだ絵本のなかに名前の記述があった記憶がなかったので、ミステリのなかで
 「ゴルディロックス」の引用がでてきても最初はよく理解できなかったものでした。

「くま」と「ミステリ」をつなげてくれたのは、「イギリス」でした。そして、「絵本」でした。
 


コメント

タイトルとURLをコピーしました